毎日の生活の中で、偶然にも遭遇した幸せを記録することで、幸せとは何か?幸せとはあらゆる事象の中にある小さな幸せの集合体。そんな持論をここに綴ったいくつかの幸せを使って証明できればとかんがえています。
2011年11月22日火曜日
一丸となって
2011年11月20日22時03分福岡ソフトバンクホークスの日本シリーズ優勝が決まった。たかがプロ野球と言うなかれ。九州にとってこの球団の勝利はものすごく意味のあること。他ではちょっと考えられない魅力がある。僕は子供の頃から野球は好きで、よくテレビ中継を見ていた。一応、東京近郊にいたので自称ジャイアンツファンだった。ナインも割と熟知していた。しかし、今ほどの感情移入は出来なかった。大人になったとき、すっかり野球から遠ざかってしまった。野球は子供の観るもの。なんとなく距離感を覚えた。ところが九州に来てから一気に距離感が縮まる。それどころかすっかりファンになってしまった。ホークスは違う。一応、選手は何人か知ってはいるけど熟知と言うほどはない、それなのに、とにかく見ると感情移入が激しい。一体どうしてホークスだけ、こんな感覚を生み出せるのか?なんだか知らないけれど、選手との障壁が少ない。みな正しくチームを応援している。野球は子供じみた趣味ではなくきちんと大人も楽しめるもの。九州の誇りだとさえ思う。一体何がそう思わすことができるのか?あの世界の王が長い間率いてきたチームだからか?孫正義が巨額の財を投じて維持しているチームだからか?どちらも一つの要素ではあるけれど、それが即ち要因ではない。その要因は九州という地域一丸となって戦えるところ。それにつきるのではないか。それがこのチームにだけある特異性。完全に引き込まれてしまう。若くて新しいチームだったから、みんなが頑張れた。以前は、頑張るとバカにされるきらいがあった。若いからそんな空気を払いのけられた。この特権はだんだん年を重ねることで他と変わらなくなって来ているのかもしれない。しかし、その芯にある一丸となる術は変わらない。これからも変わらない一丸となったタカであるかぎり、ぼくらはタカを応援することだろう。日本一は我がことのように嬉しい。
2011年11月4日金曜日
ライフスタイルを変える
最近、ライフスタイルの転換を始めている。何処までかえられるかは分からないけれど、すでにはじめている。まずは通勤形態の変更。特急通勤を止めることで特急券代が浮く。
会社でのむ飲料をミネラルウォーターベースに変えた。いままではレモンフレーバーモノばかり飲んでいたから、水に変えた。もう少し頑張れば水筒にできるのだが。
夜は相変わらず約20分の徒歩帰宅がある。帰宅時間が遅くなればなるほど、きついがつづけざるを得ない。
昼もチープな弁当に切り替える努力をしていて、いまのとこ半分くらい。
朝カフェも安くしたし、経済効果は大分反映されたはず。
2007〜2011で四年が経つ。五年目に突入し、何処まで改善できるかわからないが、やるしかない。やればやっただけ何か返ってくるモノがあるかもしれない。
会社でのむ飲料をミネラルウォーターベースに変えた。いままではレモンフレーバーモノばかり飲んでいたから、水に変えた。もう少し頑張れば水筒にできるのだが。
夜は相変わらず約20分の徒歩帰宅がある。帰宅時間が遅くなればなるほど、きついがつづけざるを得ない。
昼もチープな弁当に切り替える努力をしていて、いまのとこ半分くらい。
朝カフェも安くしたし、経済効果は大分反映されたはず。
2007〜2011で四年が経つ。五年目に突入し、何処まで改善できるかわからないが、やるしかない。やればやっただけ何か返ってくるモノがあるかもしれない。
寄藤文平
毎日通勤で電車に乗るため、否が応でも見るのが車内吊り広告。デザイナーが関わっているもの、適当にやっているものがごちゃまぜになっているのだが、そのなかでも抜きでた存在感の広告がある。巷では何年も前から話題のJTの吊り広告として認知されているあの公共標識張りのピクトが起こすタバコにまつわる珍事をサラリとイラスト化して、逆手にインパクトのある広告にしたて上げている手腕はお見事。その寄藤文平氏の運営する文平銀座にはいろいろ目から鱗のアイデアで溢れていました。まずは見てお勉強です。
2011年11月2日水曜日
巡り会い?
インターネットで公開した写真が思いも寄らないサイトで見つかった。こんなのアップロードしたっけ?全く忘れていた。そう言うものが7年後にイタリアのサイトでみつかる。面白いことに著作権は守られているようだ。ウィッキペディアというサイトにどういう経緯か僕の模型写真がアップされていて、それが中国の躍進で各国から注目されるに乗じてあちこちで参照されることになる。その写真の一つfujian.projectは何とイタリアに福建省を紹介するページのビジュアル・ソースとしてリンクが貼られていた。songjiang.projectもしかり。
客観的にみると福建省の土楼を紹介するにはもってこいの写真ではある。鳥瞰で抽象的に表現していて色味もイタリア受けしそうなモデルである。あれにインスピレーションを感じてもらって建物ができていたりしたらどうなるのか?今まで考えもしていなかったことだが、確かにないとは言えない。よもや驚きの時代である。他にもアップしてないか?調べてみよう。
客観的にみると福建省の土楼を紹介するにはもってこいの写真ではある。鳥瞰で抽象的に表現していて色味もイタリア受けしそうなモデルである。あれにインスピレーションを感じてもらって建物ができていたりしたらどうなるのか?今まで考えもしていなかったことだが、確かにないとは言えない。よもや驚きの時代である。他にもアップしてないか?調べてみよう。
2011年11月1日火曜日
朝の喧噪の中、四両目の階段に一番近い扉から電車に飛び乗る。階段に近いため、同じように息せき切って駆け込んでくる乗客が多い。「間に合った。酷いな。この年で駆け込み乗車なんて。」グレーのジャケットにベージュのコーデュロイの雰囲気のある老人が膝に手をつき、肩を上下にゆらせる、まるでカエルが上下に喉をヒクヒクさせてるように。そんな老人の前に床に座り込んでDSを興じる高校生がいた。つよしとやすきである。彼らは共に四つ先の駅近くにある高校に通っている。「くっそーっ。たまんねーな。どっかいってくんねーか、おやじよ〜。」「こりゃ、すまん。」呼吸をなんとか整えた老人は2メートルほど彼らから離れ、視線を外に反らす。「やれやれ、散々だな。」外は日本晴れの良い天気だ。秋の紅葉も真っ盛り、自然の織り成す色とりどりの景色は良一にとって唯一心癒される景色であった。この年になり、子供も離れ、会社では高圧的な要求に対応するクレーム処理係り、家に帰れば恐妻がまた何かに不満をもち、良一を怒鳴りつけるためだけに待っている。楽しみは自分一人になれる通勤中のひととき、外の紅葉もやがて終わり、窓は都市の風景を映す。窓から目を逸らして出入口の方を再び見ると、相変わらず二人の高校生がゲームに興じている。席が空いてるというのに、なんで床に座るのか。良一には理解できなかった。そこでつい余計な一言を挟み込んでしまう。この一言のために、いつも恐妻の気分を逆なでしてしまうというのに。「そこの高校生諸君!席はいっぱい空いておるぞ、席に座ったらどうかな。」と良一がいうと「聞いた?高校生諸君!だってよ。」そう茶化して言うやすきに対し、つよしは苛立ちげに「うっせー、黙ってろ。」という。
2011年10月29日土曜日
デザイン
僕の仕事はデザインの端くれである。デザインは好きなのだが、はっきり言って、その中では平凡な部類の人間である。素晴らしい環境を構築する自信はあるが、最先端のデザインを考える自信があまりない。それ故にそこをつかれると痛い。年上の先輩から、
「あの一昔前前のデザインはお前のか。あの模型にはひっくりかえったぞ。」と言われた。
「そうだ。何かあの模型に問題でもあるのか?」
「あの前についているピロピロは何か?」と言うので
「あれはルーバーだ。」と返す。
「あの校舎は西向きなのか?」と言うので
「あれは目隠しだ。裏に手洗い、下駄箱といろいろかくしている。」
「じゃあ、あれは廊下なのか?」
「まあ、そんなようなものだ。よく見てもらえれば外部階段もついている。」
「そうか。」と言って先輩はたちさる。
デザインには自信が無い分、理論武装はある程度はしている。全くの装飾めいたものはそのセンスが無いので、ある程度機能のあるモノしか設けていない。デザインが悪いなという話に機能で応戦したかたちだ。多分、デザイン討議をしたかったのかもしれないが、まずもってそんな投げかけをされても、悪いけどできない。
実務バリバリの先輩二人からデザインについているクサされた。まあ、不確定要素の多いのがデザインであって、理路整然と説明できる部分は少ない。悪いと思えば悪いし、良いと思えば良いのが本当のデザインであるから、やはり僕には向かない。意味も無いことに自信が持てないから。良いデザインとは何か?という設問が一番厄介。人のデザインはよく見えるのだけどじぶんのは客観的になれずどうしても防御に回ってしまう。「これがカッコいいんだ。どう思う。なんて余裕が持てればより成長ができるのにと思う。「一体、あれのどこが一昔前のデザインなのか?教えて。」とでも聞いたらどうだったのか?」いろいろ考えてしまう。こういうことはもう少し時間が必要みたいだ。
「あの一昔前前のデザインはお前のか。あの模型にはひっくりかえったぞ。」と言われた。
「そうだ。何かあの模型に問題でもあるのか?」
「あの前についているピロピロは何か?」と言うので
「あれはルーバーだ。」と返す。
「あの校舎は西向きなのか?」と言うので
「あれは目隠しだ。裏に手洗い、下駄箱といろいろかくしている。」
「じゃあ、あれは廊下なのか?」
「まあ、そんなようなものだ。よく見てもらえれば外部階段もついている。」
「そうか。」と言って先輩はたちさる。
デザインには自信が無い分、理論武装はある程度はしている。全くの装飾めいたものはそのセンスが無いので、ある程度機能のあるモノしか設けていない。デザインが悪いなという話に機能で応戦したかたちだ。多分、デザイン討議をしたかったのかもしれないが、まずもってそんな投げかけをされても、悪いけどできない。
実務バリバリの先輩二人からデザインについているクサされた。まあ、不確定要素の多いのがデザインであって、理路整然と説明できる部分は少ない。悪いと思えば悪いし、良いと思えば良いのが本当のデザインであるから、やはり僕には向かない。意味も無いことに自信が持てないから。良いデザインとは何か?という設問が一番厄介。人のデザインはよく見えるのだけどじぶんのは客観的になれずどうしても防御に回ってしまう。「これがカッコいいんだ。どう思う。なんて余裕が持てればより成長ができるのにと思う。「一体、あれのどこが一昔前のデザインなのか?教えて。」とでも聞いたらどうだったのか?」いろいろ考えてしまう。こういうことはもう少し時間が必要みたいだ。
2011年10月28日金曜日
朝カフェ効果
朝が来た。毎日夜になり、朝が来てまた夜に向かう。毎日同じ喧騒の中へ飛び込む。今日はどんな驚きに満ちた一日なんだろうか。朝は一日のスタート。先ずは一息カフェで息を吐く。特急でいっていた頃は、大分カフェでの時間が使えた。この朝の三十分が一日の行動を決めることもしばしばあった。会社に着けば机にはメモ紙があり、ログインしてメールを開けば処理すべきメールが何通かあり、後ろには「申し訳ないんだが今日五時間でいいから時間をくれ。」と言う上司が待ち構えている。常に周りでは何か急ぎの仕事があり、とても会社で落ち着いた作業スケジュールを作ったり、直近ではない仕事の段取りを決めるなんて不可能。仕事場では仕事を捌くのに必死であとこれもやっておこうと言う落ち着いた思考回路はまるで無い。だから朝の落ち着いたひと時をカフェでコーヒーをすすりながら何をやることになっているのか?置き去りにしている業務は何か?何か今日こなしておくと、後で楽になる事はないか等をメモすることで会社でのフットワークが違ってくる。ちょっとしたスケッチ、アイデア、探す資料の項目出し、精算等、を朝行うことで、頭の中にある程度、一日の作業工程ができるので、上司に、「五時間は取れません、今日はこれとこれをやらないと後で収拾がつかなくなります。二時間でお願いします。」との切り返しができる。このように会社では自分の領域が侵され亡き者にされるケースが意外に多く、それを放置して別の仕事を手伝い、自分の仕事が遅れると、管理能力がないと言われる。意外にもそうした掴みをしないで仕事に当たる人は多く、分からないから、とにかく文句を言われない時間まで残り、忙しさをアピールするしかない。朝のひとときで頭を整理できれば、ここまでやればと言う線引きができるし、事前抑制できるので、計画的に効率よく仕事ができる。これを朝カフェ効果と呼んでいる。充実した一日を過ごすには朝カフェが重要なひとときです。
苦労の果てに得た充実
毎日毎日夜遅くまでよく働くよな〜と我ながら呆れてしまう。しかし、会社内ではこれでも早く帰る組に属すのだ。呆れ果ててものが言えない。朝9時から夜中の2時まで働く人が実に多い。確かにやる事は多いのだが、はっきり言ってやりすぎだ。メリハリなく働くことは百害あって一利なしだと思う。夜11時に退社(終電)することだって非常識この上ないというのに、朝の2時なんて…。徹夜だって多い。しかも貫徹。三徹もたまにある。久しぶりに三徹した時は身体がおかしくなって整体に行って矯正してもらう羽目となった。五年前は三徹して半日休後にまた三徹、なんてことが実際にあった。しかしあの頃はまだタフだった。だんだん体が気持ちについてこなくなっているのかも知れないな。まあ、しかし三徹の話だから、それについていける方がおかしいとも言える。ぼーっとしている時間が多くなり、新しい発想なんか出るどころではない。決してよい事ではない。一気にやってしまおうという時には良いのかも知れないが、やはりやらないに越したことはない。次の日、その次の日と長く渡って気だるさが残る。仕事が無くなればそれはそれで大変なのだが、とりすぎ、やりすぎも良くない。ほどほどがよいのだが中々そう上手くは行かない。そんな中で、一つ嬉しいことがあった。プロポーザルに当選したのだ。今までも当選はあったが、全て自分で構築した案というのは今までにはなかった。それゆえに嬉しい。徹夜しても意味があると思える。いろいろな人に相談して、意見をもらい、プレゼンシートをみんなで協力して作成した。試行錯誤を繰り返し、上手く行く部分もあったが、失敗した部分もあった。人の意見が強く、自分の意見が通らなかった部分はある。しかし、それ以上に充実感がつよく、思ったようにできた。楽しくできた。営業力も大分関係したプロポーザルでもあった。それでも尚且つ支配するこの充実感はなんなんだろう。この仕事をやっている以上、最も喜ばしいことがこの充実感だ。やることはすべてやった。それで取れた。なんて幸せなんだろう。協力してくれたすべての方々に感謝を言いたい、ありがとう。
2011年10月27日木曜日
とある闇と…
さてはて何について書こうかな。世の中いろいろ難しい人が多いものだ。隣で突然はじまった殴り合い。理由なんて全くわからない。双方とも50を超えたいい大人。見ているほうが気が来じゃない。もっとハッピーな事を書くつもりではじめたこの文章も、続けて書けなくなってしまったので、全部消してこの文章に替えた。
人は時に言い表す事のできない闇を抱えていたりする。たまたまそんな部分に触れてしまったのか、向かいのおじさんが殴られる。殴って何か解決するわけでは無いのだけれど、その人は殴る事を選ぶ。朝の忙しい電車の中で、言い表す事の出来ない怒りが周囲にばらまかれる。爆発してしまった怒りは去ることでひとまずは決着するのだが、言い知れない痛みが其処彼処に残る。当然のことながら、それは僕の書きはじめた小さな幸せの文章とは真逆の出来事だった。まったく、こまったものだ。どうすれば良いんだ。いまは幸せな気分にはなれない。
やれやれ。
人は時に言い表す事のできない闇を抱えていたりする。たまたまそんな部分に触れてしまったのか、向かいのおじさんが殴られる。殴って何か解決するわけでは無いのだけれど、その人は殴る事を選ぶ。朝の忙しい電車の中で、言い表す事の出来ない怒りが周囲にばらまかれる。爆発してしまった怒りは去ることでひとまずは決着するのだが、言い知れない痛みが其処彼処に残る。当然のことながら、それは僕の書きはじめた小さな幸せの文章とは真逆の出来事だった。まったく、こまったものだ。どうすれば良いんだ。いまは幸せな気分にはなれない。
やれやれ。
2011年10月26日水曜日
家計への貢献?
最近、通勤手段を替えた。通勤に時間がかかるため、いままでは特急に乗っていた。朝、諸事情で時間を取られるので甘んじて特急を利用していたわけだが、ある切っ掛けを機に切り替えて見ることにした。始めこそ抵抗感が感じられたものの、やり始めると、結構できるもんだ。最近、ブログだFACEBOOKだとやりはじめたので、結構時間が潰せる。先ずは一歩、先に進めた。これは個人的には革命的な出来事。毎日、その感触に触れ、悦に入る。タバコは吸わないが、タバコをやめたくらいの節減となるわけだから、これは家計的に大きなことだ。これぞ小さな幸せだろうか。引越しという大きな支出を前に少しは貢献できたかな。継続することに意味がある。がんばるぞ。
2011年10月25日火曜日
小さな幸せの見つけ方
「常識」とは当然のことだが人間が作ったものだ。かなりの人が共通認識として持つ決め事が一つの括りとして「常識」と呼ばれている。しかし確固たる括りがあるかと言えばなくて、曖昧無垢。人が何人か集まって交流を始めると、おのおのの常識の違いを探り会う。一度「常識」が食い違うと、揉め事になるか仲間同士で負の圧力を共有する事になる。こうした「常識」の食い違いは一般的に「認識の違い」とも言われる。この小さな仲間の間で起こる「認識の違い」が仲間同士の関係に不本意な縛りを生み出している。「会社」と言うものはこうした「仲間」寄り集まって社会性を持った括りであり、個別に「常識」をもつ幾つもの「仲間」で構成されているいる。個人個人の間で発生するプレッシャーが個に対して最も影響力があり、問題を引き起こす。
例えば退社しようとして荷物をまとめていると部長から「(みんなが忙しく働いているのに)君は帰るのか?。」と聞いてくる。「はい、帰ります。」「(手伝ってもらいたい事は五万とあるというのに…)そうか…。」大概、多くの人はこの会話自体を避けたくて「(帰りたいけど…)何か手伝いましょうか?」なんてことを言ってしまう。「(しめしめ)そうか、手伝ってくれるのか〜。ありがとう。」まあ、俗に言うパワーハラスメントの一種。こうした弱みにつけ込まれると、弱者は人の分まで働くことになり休めなくなってしまう。そして心身共に参ってしまう。ある程度の「常識」については従うべきだが、やはりほどほどにしないと正常な生活がいとなめなくなる。だから上司の圧力に対してもある程度NOと言って良いのである。まずは自分に素直になること、物事を他動的に決めるのではなく自分で主体性を持って決めるようにすれば、自ずと答えは出てくる。あまり我が強すぎると利己的な奴と言うレッテルが貼られてしまい、それはそれで問題だが、ある程度は許容範囲内だと考える事にしている。「小さな幸せ」を探すにもしても時間が必要だから。なかなかタフだが、そうした生活も時に良いところがある。厳しい環境下でサバイブすることも、小さな幸せになりうる。本当に全ては気の持ちようだったりもする。
例えば退社しようとして荷物をまとめていると部長から「(みんなが忙しく働いているのに)君は帰るのか?。」と聞いてくる。「はい、帰ります。」「(手伝ってもらいたい事は五万とあるというのに…)そうか…。」大概、多くの人はこの会話自体を避けたくて「(帰りたいけど…)何か手伝いましょうか?」なんてことを言ってしまう。「(しめしめ)そうか、手伝ってくれるのか〜。ありがとう。」まあ、俗に言うパワーハラスメントの一種。こうした弱みにつけ込まれると、弱者は人の分まで働くことになり休めなくなってしまう。そして心身共に参ってしまう。ある程度の「常識」については従うべきだが、やはりほどほどにしないと正常な生活がいとなめなくなる。だから上司の圧力に対してもある程度NOと言って良いのである。まずは自分に素直になること、物事を他動的に決めるのではなく自分で主体性を持って決めるようにすれば、自ずと答えは出てくる。あまり我が強すぎると利己的な奴と言うレッテルが貼られてしまい、それはそれで問題だが、ある程度は許容範囲内だと考える事にしている。「小さな幸せ」を探すにもしても時間が必要だから。なかなかタフだが、そうした生活も時に良いところがある。厳しい環境下でサバイブすることも、小さな幸せになりうる。本当に全ては気の持ちようだったりもする。
小確幸
生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれど確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきりに冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。そしてそういった「小確幸」のない人生なんて、かすかすの砂漠のようなものにすぎないと僕は思うのだけれど。
(「うずまき猫の見つけ方」1996 村上春樹著)
小さな幸せは村上春樹の「小確幸」に由来する。村上春樹のことだから、僕が考えるより、より崇高な意味を併せ持った造語であり、「僕のはより普通な感じ」ということであえてその冠は使っていない。とは言え、やはり使えばよかったかな〜とも感じたりする。とにかくその事だけは書きたくて、「うずまき猫〜」の本文まで抜粋して書いている。(笑)「小確幸」を毎日渡り歩く生活がしたい。そのために常にアンテナは張りっぱなし。ぼくの場合、「確かな」の部分が多少希薄なのかもしれない。村上春樹なら毎日決まった時間まで仕事をして決まった時間からお気に入りのバーに繰り出してモルツで一杯なんていう、小さいけど確かな幸せ「小確幸」を実践しているように思う。そうしたモノも出てくれば僕だってやりたいが今のところそうした確実なものというより毎日起こる異なる事象の中から、幸せを見出すことに重点が置かれている。でもいくら御託を並べても、やはり「小確幸」が起点にあることは確かだし、理想はやはり「小確幸」なのだと思う。
(「うずまき猫の見つけ方」1996 村上春樹著)
小さな幸せは村上春樹の「小確幸」に由来する。村上春樹のことだから、僕が考えるより、より崇高な意味を併せ持った造語であり、「僕のはより普通な感じ」ということであえてその冠は使っていない。とは言え、やはり使えばよかったかな〜とも感じたりする。とにかくその事だけは書きたくて、「うずまき猫〜」の本文まで抜粋して書いている。(笑)「小確幸」を毎日渡り歩く生活がしたい。そのために常にアンテナは張りっぱなし。ぼくの場合、「確かな」の部分が多少希薄なのかもしれない。村上春樹なら毎日決まった時間まで仕事をして決まった時間からお気に入りのバーに繰り出してモルツで一杯なんていう、小さいけど確かな幸せ「小確幸」を実践しているように思う。そうしたモノも出てくれば僕だってやりたいが今のところそうした確実なものというより毎日起こる異なる事象の中から、幸せを見出すことに重点が置かれている。でもいくら御託を並べても、やはり「小確幸」が起点にあることは確かだし、理想はやはり「小確幸」なのだと思う。
いまこの瞬間…
実は、いまこの瞬間が小さな幸せ真っ只中なのだということを残念ながら気づいている人は少ない。それどころか、そんなこと言ってると発展が終わるよなんていう人もいる。世の中はいろいろだな〜とそんな時に思うようにしている。だって小さな幸せは人それぞれ違う形をしているのだから。ニヒリスティックに考える幸せというのもあるのかもしれない。たぶんね。
2011年10月24日月曜日
きりん
到津の森公園でキリンの赤ちゃんが産まれたと言うニュースを聞いた。サポーターとしては居ても立っても居られない、早速観にいくことにした。天気が悪い週末だからどうかなと思ったけれど、思いの外、お客さんは入っていた。ここ最近はキリンの赤ちゃん目当ての入場が多いのだろう。キリンの近くにいくと、「わ〜、小さい。」「赤ちゃんよ。結構大きいね。」「おっぱいのんでる。」「わたし、キリンを見るために来たんだから、しっかりみなくちゃ。」なんていう楽しげな会話が彼方此方で飛び交う。今日何がなんでもこなくてはならなかった理由があった。実はこのキリンの赤ちゃんに名前をつける事ができるという期間の最終日なのだ。去年もシマウマの赤ちゃんが生まれた時にも同じ募集があり、挑戦したものの、残念ながら名付け親になることはできなかった。しかしそのシマウマのお陰で動物がより近い存在になったような気がする。
僕たちが子供だった頃、動物園とはもっと特別な場所で滅多にいける場所ではなかった。しかし今は非常に近しい存在になった。野生動物と言うものがどんなものなのか全く知らない人が来園することは今の時代、稀有だ。中には事前に詳細情報をネットで調べて、あたかもその確認作業にやってくるなんていう人もいるくらいに情報化社会は成熟してきている。そんな中、動物園とはどのような存在なって行くのか?それは自分たちと一緒の時代を生きる共同生活者である野生動物との唯一無二の交流の場として、今より近かく、より透明な存在になっていくように思う。ガラス越しの交流ではあるが、以前に比べ、格段に良くなった施設を見ると、その前向きさに感動を覚える。
この園の考え出したサポーター制度はこうした交流のあり方を前向きに考えた提案だ。旭山動物園から学んだ分が多かろうが問題ではない。支持するし、そのためにされている双方向への寄与にたいして、頭が下がる。今回のキリンの赤ちゃん誕生のような小さな幸せがどんどん発信されて、ますます充実した交流がもてるような社会になること、それが僕の夢の一つ。
僕たちが子供だった頃、動物園とはもっと特別な場所で滅多にいける場所ではなかった。しかし今は非常に近しい存在になった。野生動物と言うものがどんなものなのか全く知らない人が来園することは今の時代、稀有だ。中には事前に詳細情報をネットで調べて、あたかもその確認作業にやってくるなんていう人もいるくらいに情報化社会は成熟してきている。そんな中、動物園とはどのような存在なって行くのか?それは自分たちと一緒の時代を生きる共同生活者である野生動物との唯一無二の交流の場として、今より近かく、より透明な存在になっていくように思う。ガラス越しの交流ではあるが、以前に比べ、格段に良くなった施設を見ると、その前向きさに感動を覚える。
この園の考え出したサポーター制度はこうした交流のあり方を前向きに考えた提案だ。旭山動物園から学んだ分が多かろうが問題ではない。支持するし、そのためにされている双方向への寄与にたいして、頭が下がる。今回のキリンの赤ちゃん誕生のような小さな幸せがどんどん発信されて、ますます充実した交流がもてるような社会になること、それが僕の夢の一つ。
2011年10月21日金曜日
写真と記憶
カメラをデジタルに変えてからもう十年、携帯電話を持ってからも同じ月日が流れている。つまり写真がそれだけたまっているということ。人間の記憶とは素晴らしく、結構前のことをあたかも昨日のことのように思い返すことができる。しかし写真は違う。時系列で並んでいる。毎月一ファイルのペースで撮り溜めた写真の海はいちいち開いて確認しないとなにが入ってるのかすらわからない。非常に不便だが、記憶とは違うのは、そこに忘れ去って久しい記憶の片鱗があること。目的の写真は今から四年も前に撮った写真だった。多くの写真の中に埋れていた。写真は過ぎ去った時間の間に随分と変わってしまった。かくも素晴らしかった写真はなんて無様な姿になってしまったのか。いやまてよ、そんなはずはない、写真が変わるなんて事があるもんか。変わってしまったのはかくいう自分の記憶の方だ。記憶は素晴らしいものだが、実に不正確な側面も持つ。その写真を見てしばらくは落ち込んだものだが、次のことに気づく。写真は撮りようによって、いかような印象にも変わる。よくよく見ると、写真毎に印象が異なる。そう、とにかく素晴らしいという事実は変わらないんだ。素晴らしいと感じるにはそれ相応の理由があり、その写真がどんなに印象が違っても、がっくりする必要はないんだ。そう気づくことができたのはちょっとしたラッキーだった。素晴らしいと思ったそのこと自体になんら間違いはない。
写真サーフィンでいろいろな記憶がまた蘇る。時間がかかって大変だったけど、その捜査のお陰で埋れていた記憶を掘り起こすことができた。記憶、写真どちらもともに素晴らしい。写真が作る新たな地平が開けている。全く新たな記憶をうみだすこともできる。1勝1敗。小さな幸せがそこにあった。
写真サーフィンでいろいろな記憶がまた蘇る。時間がかかって大変だったけど、その捜査のお陰で埋れていた記憶を掘り起こすことができた。記憶、写真どちらもともに素晴らしい。写真が作る新たな地平が開けている。全く新たな記憶をうみだすこともできる。1勝1敗。小さな幸せがそこにあった。
紅葉
気候は毎日暑かったり寒かったりとコロコロ変わる。衣替えしたのに背中に照りつける日差しには参る灼熱の太陽、暑いかと思えば、今度は北風の吹く雨模様。温度差15度もあると身体もついていかない。おかげで鼻風邪が取れない。そんな中でだんだんと色付きを見せている樹々の紅葉は美しい。目の保養だ。仕事が忙しくプライベートでなにかすることも少ないここ最近、唯一楽しめるのが樹々の紅葉。出張先が、遠隔地ということが多く、その往来の間に、樹々の色付き具合を確認できる。そんな時に小さな幸せを感じたりする。いよいよ冬に突入するのだな。決心はいいか?ちょっと待って。いいぞ。そりゃまだ早いさ。いいんじゃない?あほ、焦るな。もう落葉したよ。早すぎないか。俺、常緑だし、関係無いや。なんだ季節感が無いやつだな。みろこの赤を。おおっ、お見事。私は黄色よ。こちらもなかなか大した物だ。なんていうさ囁きが聞こえてきそうだ。
2011年10月20日木曜日
小さな幸せとは…
毎日、ちょっとした驚き、関心すること、幸せだな〜と思えるようなことがあります。そんな一コマを綴っていこうというのがこのブログのメインテーマ。小さなことでもクローズアップして全体としての存在意義を創り出せたらと考えています。
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